ARCHITECTUAL OFFICE MUSOU

Residence of Amami

奄美の民家

日本最南端に位置する民家の技術、先人は遥か彼方を歩いていた。民家を概観してゆくと二つの大きな流れがある事に気づく。一つは本土(九州から青森)に伝搬した木造伝統工法、もう一つが奄美地方のヒキムン工法である。伝統工法は在来工法に引き継がれてゆく事になるが、似て非なるものである。現在伝統工法で家を建てる事はかなり敷居が高い、敷地、予算に加えて構造計算に多大な時間を要する事が主な原因である。一方ヒキムン工法は柱を傷めず架構する工法であり、結果として大きな横架材が必要となる。裕福な家の人しか造れなかったという話が残っている程である。興味のある方は、日本建築学会技術報告書 第16巻 第33号 779-784 2010年6月 奄美大島のヒキムン架構の実測調査研究に詳しい、参考にされるといい。このヒキムン架構で造られた家は毎年来る台風で引き倒され回転したとしても、ロープで引き起こせば又元のまま暮らせたようである。勿論移動した先での話である(おおらかで、羨ましい話ではある)この二つの工法に共通しているのは、第一に自然素材のみで組み立てられているということ(石材、木材、土、藁である)第二に大地に対して緊結されていないという事。前掲で出てきた宇宙-人-地球の図式が読み取れる。ここでは宇宙-建造物-地球(大地)の関係である。秦氏一族が伝えた幕屋(神社)の発展形が伝統工法であると考えられるが現在調査中である。ではヒキムン工法は何処から?伝統工法と同一視する事は難しい。そして、何故北海道は無いのか?本土(九州から青森)ど奄美地方は何故違うのか?その答えは縄文時代まで遡る。約10,000年という長きに渡った縄文時代の後期に、大陸より弥生人の大量移動があり、その弥生人に押される形で一方は北海道に移りアイヌ民族となり、もう一方は奄美地方に移動となった。それ故に、北海道と奄美に純粋な縄文人の血が引き継がれてきた様である。その後は交配が繰り返され、先日の報道の様に縄文のDNAは10%程に推移してきたと予測できる。ここに住まいとしての形態の変化と秘密をかぎ分ける事が可能だと思われる。下記に架構の仕口部分を3次元化してみた。

 

カネク、クリ、オオタ、サト集落の航空写真である。

 

住宅脚部  オレンジ:大引300*80、緑:根太:300*80、柱:135*135(125*125)

 

内柱(梁と桁) オレンジ、緑:ヒキムン材250*250、柱:135*135(125*125)

 

外柱(梁と軒桁) オレンジ:ヒキムン材250*250、緑:軒桁105*160、柱:105*105、小屋束:105*105

 

床束 大引:300*180、柱:105*105、ホゾ穴:35*180 大引き、根太組の後柱を差し込み、持ち上げた後チギリを打ち込んでいる。

 

床束 大引、根太:230*180、柱:125*125、ホゾ穴:35*180 大引きをケンドン方式で束に留め、ちぎりで固定している。

 

内柱(梁と通柱) オレンジ:ヒキムン材250*250、柱:135*135、ホゾ穴:35*180 ヒキムン材に?加工を施してはめ込み、栓を打ち込んでいる。

 

 

ヒキムン材がいかに大きいか見てとることが出来ます。それ故、財力のある者しか許されない工法であったようである。柱には極力加工を加えず、解体組み立てが可能なように考えられている。本土の様に上部からの積雪荷重に耐えるというより、風圧力をより配慮した力学特性を示している。台風に遭遇して横転し移動したら、村人総出でお越し、移動したその場所で新たな生活を始めたと聞く。んんん、大らかで気持ちが和む!

 

 

奄美の海岸で御座います。
ああ!チョット失礼、
先程虫に食われた所が貝貝。
(先月友人が写真を送ってくれた、海の豊かさに驚かされる)


 


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