ARCHITECTUAL OFFICE MUSOU

Contemplation of from day to day

思索の日々

 

 

建築物は科学に裏打ちされた、実に複合的な施設である。我々が生まれた時に出合う世界は、時に彩られた実に多彩な色彩を放つ。世界を包む自然であり、脈動する社会であり、時々顔を出してくれる燐家の叔母さんであり、そして兄弟姉妹、一番身近にいる母親である。そこでの環境、慣習、教育等を原点として受け入れる。そこに選択の余地はない。受け入れたものの真嘘を考察することなど、とても及ばない話である。こうして100人の人がいれば100通りの個性が生まれる。加えて、ここにDNAの情報が組み込まれれば、実に多彩な人間模様が形成される。ある時代に存在した人間の能力も、社会、自然の変化と共に衰退していった様を現在見る事が出来る。技術も然りである。文化、文明の変遷と共に消滅した巧は数知れない。

 

ここでは、一番身近な、否一番身近であった民家を例にとって現代を振り返ってみたい。民家の発生は何時開始されたのか?それを住まうということを出発点に捉えると、それは縄文時代までさかのぼらざるを得ないであろう。地面に柱を建て藁で屋根を覆った簡素なものである。左記の写真は少々時代も下り、入り口に庇が付き、棟飾りも現代に通じるものがある。縄文時代は実に紀元前12,000年から紀元前400年の長きに渡る。1万年超という年月は人の寿命に比して限りなく長い、そして長期にわたり生が維持されてきたのである。縄文時代の初期と末期には寒冷期がやってくる、この気候変動が時代の変遷を進めてゆく契機となっている。生きる事に大変な困難を伴ったであろう事は想像に難くない、中央に囲炉裏が設えられてあったとはいえ、冬の寒さは極めて過酷なものであったろう、夏は比較区的恵まれていたとはいえ、夕刻近くに襲い来る蚊の群れにどのように対処したのか、勿論病気にり患しても医者はいない、些細な傷が生命の終焉に直結したはずである。狩猟生活だと仮定すれば、時には飢えに苦しまねばならない。

現代人がジャングルの中に置き去りにされたならば、1日とて生存する事は難しい。ましてや生を1万年の長きにわたり維持することなど、想像さえ不可能である。だが彼らは生きてきた。そしてその後2000年に渡り影響を及ぼし続けている。

 

縄文時代の住居を3m程上に引き上げると、我々に馴染みの深い民家に変身する。その時代の要請を受けて機能が付加されても、基本構成は縄文の延長上にある。だが我々は知っている、縄文と弥生の間に大きな次元の壁とでもいうようなものが存在することを。型(もの)は伝統として、文化は口伝あるいは物語として次の世代に受け継がれてゆくが、知識は生を伴わないとき、おとぎ話として庶民の娯楽に寄与するだけである。時の経過の中で型(もの)のみが引き継がれスピリット(精神)は退化し忘れ去られてゆく。決して未開な人々の群れではなかった事が、最近の数ある発見で解ってきている。それは超古代の人々の英知を引き継いできた末裔であったと考えるのが妥当であろう。そこには我々より遥かに進化した人々が生を営んでいたのであり、封印されたDNAが眠っている。1万年という歳月はあまりにも大きく、地球の感覚からすれば以後の2、000年はあまりにも短い。紀元前3500年頃に三内丸山遺跡の大規模集落が存在し、江戸時代末期1800年頃に民家の田の字プランの完成を見るのだが、初期は未発達であったことを考慮に入れると、発達から完成までに1万有余年を要したことになる。そのターニングポイントが弥生時代であり、軒の上昇と、床及び間仕切りの発生である。床の発生と役割とはいかなるものであったろうか?その解明には、最初に縄文時代とは如何なるものであったのかを探る必要がある。

 

レムリア文明の末裔が築いた縄文時代、そこにツラン民族がツラン平原から北回りで日本に移住して、縄文文明と混じり合った。又、ツラン平原から南下した仲間達が、インダス川やメソポタミアにシュメール人が住み着いていった。またその道中で分かれた集団が中国の黄河文明や長江文明を築いていく。これらの人々がシュメール文明や黄河文明を築く足掛かりとなってゆく。
日本民族にとっての道とは、人間の営みが、自然を破壊してはならない、自然と調和し、人工がむしろ自然をより豊かに、より美しく繁栄させるものでなくてはならない。そのような方向に人間が進んでいく時、それを「道」と名付けたのである。人間の営為が積み重ねられてゆくありさまが「文明」と呼ばれてきた。これこそ、ツラン文明→ 縄文日本人→ 日本民族、と受け継がれた根本概念である。

こうしてツラン文明を正統に継承したのは縄文文明であった。その住まいは円形の上に架構が施され、茅で屋根が形成され個人住宅となった。その住まいが大きな円形の都市計画の重要なファクターである。紀元前1500年頃シリウスからやってきた人魚種族のシリウス人が、アフリカのマリ共和国のドゴン族に文明を伝えたとされている。このシリウス人とはアヌンナキのことであり、神とされるノンモはニンギシュジッダのことである。ドゴン族はマリ共和国のニジェール川流域に面したバンディアガラの断崖に居住する民族である。住まいは日干し煉瓦を円形に積み上げ、屋根には藁を円錐形に葺いている。日本列島では、非常に直感的なセンスを持った人々によって、現代人の想像をはるかに上回る、整然とした自然界との調和文明が完成されていた。彼らは宇宙の本質を直感によって把握しており、それを数百人規模の小都市がそれぞれ正円形になるような配置によって表し、それが集まった全体の配置も正円形になる完全な計画都市文明を開花させていた。それは、彼らがMUと呼んだ偉大なる大自然の母なる力を受容するために必要な構造であった。彼らの住居そのものも円形を基本に設計されており、その中央には、冬至の朝に東門の方から光が差し込むように聖なる中心が配置されていた。こうした円形構造の全体が、人間の本質である霊に影響力を持つことを彼らは知っていたからである。後の時代の縄文遺跡が円形であるのも、この高度な計画都市文明のあり方を踏襲していたからである。現代の日本人の大黒柱の神聖概念は、そのわずかな痕跡である

日本の縄文遺跡は村全体が円形に配置されており、その中央に祭りの場があったことが研究者の指摘でわかっている。それは整然とした美しい配置であり、一つずつの家がちょうどみんなで手を取り合って円を作った時のように、全体にも円形で配置されていた。そして質素な家の一つひとつも、すべて円形で美しく形作られていた。家も村も計画的に円形に作られているのは明らかであった。人々が集まる時も、円形に集まるビジョンが見え、同時にその周囲 に漂う空気が現代の町とはまったく違う、やわらかで優しい気に満ちていた。 現代人は初歩段階として、人々が円形に集まるとき、現代?のように直線状に対面する時とは違う、それとは異なった意識が形成されることを認識する必要がある。まだ理解されていないが、人間の潜在意識は他のどんなことよりも、空間によって決定されるのである。空間とは自分達の意識の母体である。すべての意識というものは、空間から生み出される。現代人は物を中心に物を作るが、太古の祖先は、空間に合わせて物を作り、村を作った。人間という存在の偉大な点は、その空間を変容させる力を持つことにある。空間の把握は意識の把握であり、空間を把握する ものは意識をも把握する。

 

空間と自分との関係をわかりやすく、意識レベルで説明する。人々が向かい合い、直線的な関係にある時、相手と自分という相対的な意識が形成されやすい。それは潜在意識に?元的認識構造を植えつけることになる。だが、?々が円的空間を形作る時、相対意識よりも人間の本質的な共鳴性をより増幅させやすくなる。?々が円形に集まり、すべての人が円形の中央に体を向けるとき、隣に座る人々はみな、同?の対象へと向かう共感する?として意識される。こうした形でのレベルが自分達に与える潜在意識への影響は、言葉による意識の形成よりもはるかに深く、潜在意識の根本の領域を形作るものである。なぜならそれは、?間の心の世界は宇宙と同質の構造を持ち、それによって成立っているからである。現代人は、平面に描かれた図形などに神秘的な働きを求めたりしているが、空間の持つ力は、それとは桁違いに根本的なものであることを知る必要がある。人間の祖先たちはそれを実際の生活に用いていた。空間と一つになると、人々の魂も?つに結ばれ、その集合した霊の焦点はその中央で?つになる。その共感された意識を持ちながら人々は 調和のあるつながりを実現し、深い魂の結びつきを実現させた。 若者たちは、隣に並ぶ長老たちの所作から無意識のうちにすべてを学んだ。これらは教えることなく共感的に伝え られ、自分の隣に自分と同じように並ぶ何人もの人々を、彼らは自分とつながる連続する仲間として意識していた。人間の祖先のこの円形空間の場は、極めて高度な共感意識による社会を生み出すために、不可欠な基本的条件であっ た。ほんの1ミリの角度のずれが、1キロ先では何十メートルものずれをもたらすように、それが直線状か円形状かの違 いが生み出すものは、現代人にはわずかな違いにしか思えなくても、人類文化の決定的な違いをもたらすことを、人 間ははるかな太古に認識したのである。その違いは宇宙の陰陽性を象徴するもので、すべては場、つまり空間によって決まる。この叡智のルーツは、前文明における人間の祖先の叡智にある加えて円形と茅と木材と土は宇宙からの電波を受信するアンテナであり、今もケルト民族の中に、ランドタワーの中に、そしてゴシック建築の中に見る事が出来る。縄文時代は女性社会ではあったが、決して夢のような社会ではなかった。多くの戦いがあり、民族の移動が行われ、社会の激変を経験した時代であったが、その底流には常に自然と共に生きる日本人の血が継承されてきたと言えるであろう。

 

時代は下って紀元前753年頃、古代ローマ帝国の王政時代が始まる。ロームルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた。ローマ帝国は中国の史書に大秦という国名で記載されている。秦一族はエジプトからイスラエルやペルシャを経て、シルクロード を通って中国や日本へやってきたアヌンナキであり、大秦と呼ばれるローマ帝国もアヌンナキである秦一族 が作った。縄文時代からの日本の信仰とエフライム族の信仰が習合した神道と、徐福系秦氏の信仰がさらにここで習合した。諏訪大社の十間廊は古代イスラエルの幕屋と、入口と本殿の方角が同じであり、また幕屋と十 間廊の大きさはほぼ同じである。日本の一間174cmの長さのもとが、古代イスラエルの1 キュビト=44cmから来ているのが理解できる。古代イスラエルにあったソロモンの第一神殿はレバノン杉などの木製であり(第二神殿は石)、神社も木製である。宮大工が受け継ぐ木組みの木造建築の生みの親は、エンキの息子でピラミッドの設計者のニンギシュジッダ(トト) である。

 

紀元前300年頃日本は弥生時代に?っていた。そんな中、アジア大陸から東北アジア系の人々が渡来し、環太平洋文明の末裔、日本の原住民は次第に追い払われて南九州から琉球諸島へ、また一方は北の地へと移り住んでいった。南に下った?群の内の一つが熊襲(くまそ)と呼ばれる?族で、彼らはしばらくの間、南九州の地で留まっていた。古事記には古代九州の西南部にいた勇猛な豪族として登場している。一方、次第に北へと追いやられた?群は蝦夷(えみし)と呼ばれるようになり、彼らは東北から北海道へと移住し、アイヌの祖先となった。

そうした時の流れを裏付けるように、マヤや沖縄、アイヌの人々はその顔形、彫りの深い目鼻たちや体毛や髭の濃い点、頬顎の張り出し方が強い点、やや長頭型である点などがよく似ている。日本は琉球からアイヌまで同じ祖先を持つ?族であり、さらに様々な渡来人との混血が 進んだ多民族国家である。 アイヌにも部族ごとに特徴的な刺青をする習慣があった。刺青は精霊信仰に伴う神の象徴とされる大切なもので あった。特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。まず年ごろになった女性の口の周りを、ハンノキの皮を煎じた湯で拭い清めて消毒する。ここにマキリ(小刀)の先で細かく傷をつけ、シラカバの樹皮を焚いて取った煤(すす)を擦り込む。施術にはかなりの苦痛が伴うため、幾度かに分けて小刻みに刺青を入れる。女性の腕や指 にかけての刺青は、7〜8歳になる頃から母親同伴で、彫師の元に通いながら婚礼までに少しずつ彫り進めてゆく習慣 があった。

 

結婚制度のはじまり 本来、セックスは自由なもので、古代の縄文時代のころは、結婚制度はなかった。つまり、誰かを約束などの制度 で縛る概念はまったくなかった。現代的にいえばフリーセックスで、気が合えば誰とセックスしても構わなかった。 そこにはつまらない罪悪感などなく、よって不倫や浮気などで男女がもめることもまったくなかった。 誤解してはいけないのは、フリーセックスと聞くと現代人は、原始的な、いわば動物的な社会だったからだと思う かもしれないが、それは違う。縄文時代は決して原始的な社会ではなく、とても素晴らしい文化と文明を持っていて、精神性も非常に高かった。 フリーセックスだったが、それは誰とでも構わずということではない。縄文人たちにもパートナーはいた。しかし 結婚という制度はなく、現代人のセックスに関する感覚とはずい分違っていた。彼らはセックスに関して、とても オープンだった。そこに所有という概念を持った民族が入って来て、土地を区切り、ここからここまでは自分の土地だって主張し始 めた。これが弥生時代のはじまりである。こうして、すべてを共有していた平和な縄文時代は終わってしまった。土地を自分のものだとした人たちは、そこで獲れたものやできた作物もすべて自分のものだと主張した。そして、 力の強い人たちが喧嘩を繰り返し、強い人がどんどん所有する土地を広げていった。力のない人達や、争いに負 けた人達は、力の強い人の土地で働かせてもらって生きていくしかなくなった。こうして貧富の差ができていった。力の強い人、つまりケンカの強い人はほとんどが男性である。 しかし、どんなに力が強い人でも、必ず死が訪れる。どんなに財産を持っていても死んだら終わり、持っていくこ とはできない。よって自分が死んだ後、自分が必死に戦って手に入れた土地や財産がどうなってしまうのか、それが 次に彼らの心配事になった。当然、自分が死んだ後、誰か他人がそれを横取りするのは許せなかった。誰かに取られ るなら、自分の子どもに継がせたいと思ったのである。 しかし、ここに問題があった。女なら、自分が産むから生まれた子どもが自分の子どもだという確信が持てる。し かし、男は自分が産むわけではないので、自分の子どもだという確信が持てない。そこでどうすればいいか、と考え た。そして、自分とだけセックスする女を探せばいいんだと思いついた。自分とだけセックスする人なら、その女が 産む子は絶対に自分の子どもだとわかる。その子に財産を継がせればいい。 それで権?者たちは、自分とだけセックスするという約束をしてくれる女性を探した。その代わりに、自分の財産 であなたのメン倒を一生見ます、あなたの生活は保障します、という具合である。これが、結婚制度のはじまりで、つまりお互いの利害が一致する契約である。 土地と財産を手に入れた男性は、確実に自分の血を継いだ子どもが欲しい。一方、女性は土地と財産を持っている 権?者に一生庇護してもらい、安心して暮らしたい。その利害の?致した契約が、結婚制度である。 つまり、そういう結婚制度には、所有の概念がとても強く影響している。夫は確実に自分の血を継いだ子供を妻 に産んでもらわねばならない。だから妻が他の男に近づくことをとても嫌がる。そして妻のほうも同じ。夫が他の女 の所に行って、そこに子どもが出来たら自分の立場が危うくなる、だからお互い自分だけが重要になる。そこか ら浮気や、不倫や、不貞(ふてい)行為などの考え方ができた。本来、セックスは自由なので、取った取られたと?うこと自体がおかしい。でもそこに所有の概念が入り込んだために、男女の関係が難しくてややこしいことになってしまっている。その考え方が今も根強く残っているために、現代人が苦しむ原因になっている。 浮気、不倫は無意味な考え方で、お互いは誰のものでもない。男女の関係は本来、とてもシンプルなものである。 好意があるから一緒にいたい、それだけで十分である。それを忘れなければ、何も問題は起こらない。

 

レムリア文明の末裔が築いた縄文時代、そこにツラン民族との融合があり、秦一族が神道を伝えるに及んで、住まいが決定的に変化してゆく大きな要因になったと考えられる。実質的な時代区分は直線状に変化するものではなく、何十年、否何百年かけて変化してゆくものである。そして、見えてくるものは、完成された技術が突然伝えられたであろうということである。簡素な縄文の掘立柱構造から高度な木組みへ、最初は現代でいうところの公共建築へ、その後卓越した技術が民間へと広まったと考えられる。その背後には自然との共生から、自然を従順させる道へ突き進む世界が待っていた。「所有」の概念が導入された事はあまりにも大きく、人々の生活を根底から覆す事となった。これは又、縄文との決別でもあった。文化と文明も分かちがたく、コインの表裏をなしている。現代の政治体制の根本はシュメールから発せられていると聞く。時代がどの様に変遷しようとも、1万年に渡って培われた姿は人々のスピリットから消え去る事はない。個々人の記憶には存在しえない記憶も、身体のDNAにその痕跡を見つけることが出来る。縄文時代の自然との共生、調和とは如何なるものなのか?田舎に住んで農業に勤しむのとは次元を異にする。我々を包む森羅万象と自由に対話する事が可能だったのではなかろうか、身体の中にある退化した器官も当時は十二分に活用されていた。そのように考えてくると、知的生命体により人類が創成され、数回のDNA改変を経て現在に至っているのではと、改変の過程で数多くの能力が封印されたと考えられる。それは地球という変化にとんだ極めて貴重な実験場であり、多くの生命体が訪れ活動し、未来を見つめている惑星ではないだろうか。今でも縄文時代の痕跡を数多く見つける事が出来る、この痕跡が重要なのは我々が意識さえ不可能な自然の英知を垣間見せていることである。

 

素足で歩くことはごく自然な日常的な出来事であったが、時代が下るとともに非日常的な特別な行為に変化した。大地との決別である。床の出現、靴の進化、高層建物の発達等々により人々は大地から引き離されてきた、それは未開から発展へという魅力ある言葉に誘引されて。

 

スカンジナビアの大工さん達は裸足で歩るく習慣を身に着けていた様である。「靴を脱いだ方が良いですよ、そうしないと、10年後には関節や筋肉が痛みだしますよ」と。日本でも江戸時代までは「足中」が主流であった、勿論素足ではないが「藁」を通して大地と接していた。私も子供のころ素足で田植えを手伝ったものである、ただし怪我というオマケが付いてきたのを思い出す。

 

ローマ時代の七賢人は気・火・地・水の四つの元素で世界は出来ていると言う、これはギリシャの四元素と同一と考えられるが、この世界の物質は、火・空気(もしくは風)・水・土の4つの元素から構成されるとする概念である。火は調理に使い、時に火災を巻き起こす。空気は意識したことが無いであろう、風を見る事はかなわない。水は商売の道具に成り下がり、都合の良い下水と化してしまった様だ。そして、土も商売の大きな道具となってしまった、時に災害をもたらす程度の認識であろう。見えるもの、証明可能なもののみを正としてきた世界の果てが今も展開されている。

 

戦後新しい生活様式が提案され、都市から地方へ伝わるとともに、プレファブリック技術の進歩が住宅の購買意欲を高めてきた。生活環境は一つの因子のみで変化する事はまれである、そこには非常に多くの要因が潜んでいる。畳から床板へ、障子からアルミサッシュへ、炬燵からエアコンへ、裸電球から蛍光灯へ、変化はすべてに及ぶ。畳の消失は必然的に正座の機会を奪い、正座が出来ない人も珍しくない。膝を曲げて座る為には関節の柔らかさが必要である、日本人の脚は歩行によって鍛えられた、股が太く足首が細く全長は短い。短距離には不向きであるが、疲れ知らずのまま歩く事が可能であった。

 

下肢が冷えるのは腎臓の機能低下が関わっている。ちなみに手が冷えるのは心臓や小腸の機能低下が関わっており、この腎臓の経絡、ツボの流れは足首を通ります。下肢が冷えたりむくんだりしていて足首が硬い人は間違いなく腎臓の機能が低下している。正座はこの腎臓の経絡を伸ばしてくれる働きがあり、血流を下肢に促してくれるので冷えに効果的だと言われている。加えて腹を意識する生活も正座と着物の文化と共に失われてきた。我々は天と地に繋がり支えられているという意識が、人を作るという真実を失ってしまった様だ。

 

レビ族の秦氏によって日本に盆踊りも伝わる。エルサレムに神殿があった時代、ユダヤ暦7月15日の仮庵(かりいお)祭の時には、神殿の庭に巨大な灯火が設置さ れ、高いい位置に掲げられた。そこに来るヘブライの民も、篝火や松明を持って集まった。そし て、神殿自体も大きな燭台で照らされた。これらの光は、夜のエルサレムとその近郊を明々と照らし出 し、その光景は遠くからも?ることができたという。?々はその灯火の下で踊った。これが盆踊りの起源となる。現代において盆踊りは、盆の時期に死者を供養するための行事、またその行事内で行なわれる踊りとされている。つまり盆踊りも秦氏が日本にもたらした。また、イスゴルという死者のための特別な追悼の祈りが捧げられた。盆踊りで重要なことは、中央の演台を中心に、円形に踊りの輪が二重、三重に形成されるということである。現代のように一列になり道路を練り歩くこととは区別される。そこでの踊り手は、等質で緻密な空間に包み込まれるはずである。

 

縄文土器縄文時代の食器が数多く出土している、卵を縦にして上部を水平に切断したような、一見まことに座りの悪そうな形をしており、効率も極めて悪そうに見える。当時の技術水準から考えれば今風の鍋の形も加工出来たはずであると、考えられる。では、何故この形態を選んだのか?卵型は自然が生んだ究極の形態である、下からの炎は螺旋を描きながら鍋を包み、短時間で温度を上昇する事が出来る。加えて細く刻まれた溝は極めて僅かな温度差を生み出し、結果とした全体は均一な温度を保つことが出来る。素焼きの入れ物は温度勾配により外部が高温の時は外へ、外部が低温の時は内部へ水分が移動する。調理時には短時間で均一な温度に達し素焼きを通して煮詰まってゆく。砂の中に埋めると土中のミネラルが内部に浸み込んでくる。ただ単に煮ることにとどまらず、食物のエネルギーを封じ込める最良の方法に見える。同様な形で低温の貯升を作れば無臭の液体に変化する。形態は違えども火と水は似通った性質を持つ。

弥生時代の土器の特徴は形態がよりシンプルになり土器表面が平坦に変化した事である。これは明らかに技術の進歩という解釈を超えて、異質の技術がもたらされた事を物語っている。縄文土器の外部に施された模様を絵と見てはいけない、炎を扱うテクノロジーがそこにはある。

 

次に食事内容を見てみよう。一見すると現代風に見える、玄米の主食があり、焼いたイワシ、生の胡瓜、煮た根菜類、ワカメの汁等である。私の朝食より豪華なのには驚かされる(笑)だが決定的な違いがある。生きた水で栽培された米、薬品による汚染は皆無である。だが収穫量は少なかったに違いない、自然が恵んでくれた食物を感謝を込めて食していた。野菜も遺伝子操作など無関係の世界、施肥も自然の循環の中にあったと考えられる。食物も必要な時に必要な分だけ自然と約束していたのかもしれない。豊漁も豊作も無関係な慎ましい生活が見え隠れする。

 

今日の私の食卓、いやいや冗談です。この写真に懐かしさを覚える貴方は、間違いなくご老人です(笑)

 

(新プラルト主義:第1章から第12章の一部を転記)

 

日々仕事に勤しみながら、今いる世界は何?興味は尽きない。正確性は問わないでください(笑)心に残る話が提供できればうれしい限りです。

 


トップへ戻る